思考の軌跡 試行の足跡

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福翁自伝で、100年一寸前、日本の蘭学塾にてディクテーションしてた事実を知った

いま福翁自伝を読んでいる。

緒方洪庵蘭学塾(主に医学)で数種類あるオランダの原書がそれぞれ一冊ずつしかなく、それをテキストとして使うため、塾生が代わる代わる書き写す下りがある。
あまり効率が良くないため、そのうち一人が原書を読み、複数人でそれを書き写す場面が語られている。

「一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に入って、颯々(さっさ)と写してスペルを誤ることがない。」

これ今で言うディクテーションだ!とはっとした。
現代では、このディクテーションは同時通訳の訓練としても使われている勉強の手法です。

「学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる」
と回想があるように、相当レベルが高かったんだろうなと感心。

しかも、何か野心があったわけではなく適塾書生の7、8割は目的なく苦学していたという。

「その目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう」
この洞察が鋭いと思った。

ただ、現代人に置き換えて考えてみると、高度経済成長期の「モーレツサラリーマン」や「企業戦士」と言われた頃(まだ生まれてない笑)や、いまの中国やインドの若者が、モノ(三種の神器など)欲しさや成り上がりを考え、遮二無二一所懸命に働いていた(いる)ことを考えてみると、現代では無目的の苦労は稀有なことと思った。

それは福澤諭吉が生きた当時と違い、欲求を掻き立てる広告にいつも晒され、色々な人の成功談の情報が溢れているからだろうとも思った。